白 江 庵 雑 記

右の文に引かれた地理関係を

以下の地図がしめします。


図1..沖ノ島を通る

     太陽の道

図2..久高島クボー御嶽

    を通る太陽の道

図3..弥生時代の

  福岡都市圏にあった

     太陽の道

図4..古墳時代の

  宇佐宮と宗像大社が

  指し示す太陽の道

図5..金印出土地と

   弥生時代の

   太陽の道の関係

図6.7世紀近畿地方に

    設定された

    太陽の道

図7.『三国志』

   女王卑弥呼の都へ

   の行程を図示する



 





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       日本列島の古代史 


  1.『日本古代史像の転換 倭国から日本国への王朝交代』

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  2.『稲はどこから来たか 気候地理学的な推論』

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  3.『倭国はここにあった 人文地理学的な論証』

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  4. 『日本国はどのようにして成立したか 

          王朝交代規範からの推論』

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     わたしたちの住んでいるこの国は、古代の日本列島でどのようにして

    形づくられてきたのでしょうか。歴史の教科書ですでに習っていると

    お考えでしょうが、それは本当に信頼できる歴史像なのでしょうか。

    新聞やテレビではほとんど話題にされませんが、古田武彦という歴史家が、

    現行の古代史像に代わる説を提出しています。その仮説は、常識に照らして、

    真剣に考えてみるに値する十分な根拠を挙げて議論を展開しています。

     この問題を考察しているのが上の四冊の書物です。


        解 題


    . 『倭国はここにあった』

     著者谷川修は、現在主流の古代史像を支えている議論とは独立な地理上の

    興味深い事実を発見しました。これまで考古学者も気づいていなかったことです。

    福岡都市圏の三つの重要な弥生時代の遺跡(須玖岡本遺跡・吉武高木遺跡・

    三雲南小路遺跡)が、驚くべき精度で約19kmの東西線上に直列している

    のです。この東西線を決めたのは、この線上にある東の宝満山と西の飯盛山

    です。春分・秋分の日に、最も古い(紀元前の)吉武高木遺跡の王墓が

    埋まっていた場所に立てば、宝満山山頂からの日の出と、飯盛山山頂への

    日の入りを拝むことができます。

     日の出・日の入りを拝むのは古代の太陽信仰から来ていると考えられます。

    宝満山に登ったことのある人は、頂上が巨岩でできていることを知っている

    でしょう。それは神の依りつく霊山なのです。飯盛山にも巨石があります。

    宝満山と飯盛山が霊山だったことは、後世修験道の霊場になったことが

    証しています。もう少し正確に言えば、三つの遺跡そばにある三つの神社が

    驚くべき精度で同じ緯度線上にあるのです。これらの神社の祭神はイザナギ・

    イザナミやコノハナサクヤヒメなどです。夏至や冬至の日の出を拝む方向には、

    イザナギやヒコホホデミを祀る神社もあります。三つの遺跡そばの神社は、

    太陽を拝む祭場だったと考えられます。この東西線を「太陽の道」と呼び

    ましょう。夏至や冬至の日の出の方向も、「太陽の道」に付随すると考える

    ことができます。そうすると、日本神話の最重要な神々がこれら三つの

    弥生遺跡に結びついているのです。各地に神話の舞台はここだという話が

    ありますが、日本神話発祥の地は弥生時代に最先進地域だった福岡都市圏

    だとするのが、最も合理的な理解でしょう。

     三つの重要な弥生遺跡の東西直列は、それが日本列島の古代の歴史に

    関係していることを示しています。実際に、『後漢書』に出て来る金印が

    なぜ志賀島のあの場所で出土したかも、「太陽の道」という見方が教えて

    くれます。すなわち、金印出土地の小高いところに立てば、真南に飯盛山が

    見え、冬至の日の日の出を拝むことができるのです。倭国の王は、

    「太陽の道」を崇拝していたにちがいありません。すぐに、あの卑弥呼が

    巫女だったことが思い出されます。三つの遺跡の王墓からは鏡が出土し

    ましたが、それが太陽崇拝の祭祀に使われたことは明らかでしょう。

    弥生時代の倭国の王たちは「太陽の道」上の王の宮に住み、すぐそばに

    祭場を設けて、王家の娘である巫女が太陽を祀る儀式をした、と考える

    ことができます。

     これらの事実は、三つの遺跡が『三国志』や『後漢書』が記述している倭国に

    関係していること、そして、日本神話が福岡都市圏で作られたことを証言して

    います。

     古墳時代にも、上の弥生時代の「太陽の道」のわずかに南側に

    新しい「太陽の道」が設定されたことが次の事実によって分かります。

    太陽神を祀った神社として宗像大社があることはよく知られています。

    その太陽神が宿るのは沖ノ島です。ところが、この沖ノ島の真東には

    長門二見が浦の夫婦岩(近くに御嶽)があり、真西の対馬には神ノ島が

    あります。それは、琉球王国で、王宮の東南東の海上に久高島のクボー御嶽

    があり、クボー御嶽と王宮を結ぶ直線の反対側西北西の海上には神山島が

    あるのに対応します。琉球王国では、久高島のクボー御嶽が太陽の宿る

    神聖な場所と見なされ、明治以前まで、王と聞得大君と呼ばれる王家の女性

    が、クボー御嶽を礼拝する儀礼が行なわれていました。

     沖ノ島を通る「太陽の道」は、時代の新しい琉球の「太陽の道」の祖型だと

    理解できます。ですから、上で説明した弥生時代の福岡都市圏にあった

    「太陽の道」が沖ノ島を通る「太陽の道」と深い関連があったと考えてまず

    間違いないでしょう。その沖ノ島を祀る宗像大社の真南には何がある

    でしょうか。そこには、太宰府(中国名都督府)政庁跡あります。これもまた、

    驚くほどの精度で同じ経度線上にあります。 それだけでは偶然の一致だと

    いう人があるかもしれません。ところで、都督府跡の北隣りに「旧小字大裏」

    と彫った石碑が立っていますが、その真東には宇佐宮があるのです。

    『日本書紀』には、太陽神を祀る巫女である宗像三女神ははじめ宇佐宮に

    いたと書かれています。太陽神を祀る神社としては、宇佐宮の方が先に

    建てられたのです。見通すこともできない山々で遠く隔てられているのに、

    たいへん高い精度で、宇佐宮が真東から、宗像大社が真北から、小字

    「大裏」という場所を指し示しているのを偶然と言うことはできません。

     宇佐宮も宗像大社も古墳時代に創建されましたが、都督府跡から見通せる

    目立つ山を探すと、小字「大裏」の真東に形のよい大根地山が見えます。

    反対側の真西には山にあるのに油山「夫婦岩」があります。大きな神社を

    建てる前に、この大根地山と油山夫婦岩を結ぶ東西線が新しい「太陽の道」

    を指定する指標とされたのだと考えられます。大根地山山頂の神社には、

    イザナギ・イザナミからの七代天神と天照大神からの五代の地神が祀られて

    います。この神々は日本神話の神々の主系列で、『記・紀』が大和の初代王

    「神武」の祖先神とします。これは、弥生時代の「太陽の道」の神々を整理して

    体系化したことを物語っています。そして、真西にある夫婦岩が、この東西線が

    「太陽の道」であることを証言しています。だから、大根地山-小字「大裏」-

    油山夫婦岩を結ぶ東西線が新しく設定された「太陽の道」だと推定できます。

    大きな神社宇佐宮と宗像大社は、この新しい「太陽の道」を公示するために

    古墳時代に建てられた。と理解することができます。

     以上の地理関係は左のコラムに掲示する地図で確認できます。

     

     さて、太宰府の中国式呼称「都督府」と聞けば、中国南朝の歴史書に

    記述されたいわゆる「倭の五王」を思い起こす人が多いでしょう。それらの

    王は中国南朝から「都督」の称号を授けられました。その中の倭王「武」は、

    承認される前に、「府」を置くことのできる「開府義同三司」の地位を自称し

    ました。その都督である王が「都督府」を置いたということは大いにありうる

    ことです。日本中を探しても太宰府というところは誰もが知る太宰府以外には

    ありません。日本名太宰府の中国名は都督府なのです。すると、宇佐宮と

    宗像大社が真東と真北から指し示す「都督府」に「倭王がいた」と考えるのは、

    蓋然性の高い推定です。


     倭国のことを記述したのは中国の史書です。上の地理関係を倭国に

    関連させるには、中国史書の記述を詳細に検討することが避けられません。

    それは、すでに多くの研究者が行ない、また、古田武彦さんも徹底して行ない

    ました。しかし本書は、先行する議論にとらわれることを避けるために、

    独自に新しく読解を試みました。


     第1の書物『倭国はここにあった』は、遺跡や神社や山々など実在物の

    地理関係を一方の論拠にして、中国史書の厳密な読解と照合関連させて、

    可能なかぎり厳格な論理を重ねて、中国史書の記述した「倭国」がどこに

    あったかを論じたものです。

     どうぞ議論の詳細をご覧ください。



    . 『日本国はどのようにして成立したか』

     姉妹編である第2の書物は2021年に出版しました。アマゾンに出品。




          

          『倭国はここにあった 人文地理学的な論証』

                  目 次


      第1章  「太陽の道」の考古学       ・・・・・・・・・・・・・   3


      第2章  「太陽の道」の歴史地理学   ・・・・・・・・・・・・・   55


      第3章  「太陽の道」から探る日本列島の古代 ・・・・・・・  113


      第4章  中国 史書 が記述する 500 年までの倭国  ・・・・  143


      第5章  中国 史書 が記述する 6 00 年 代 の倭国 ・・・・ 193


      第6章  終章 新しい古代史像へ       ・・・・・・・・・・・ 214









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